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常設展

常設展(髙木志朗・円平仁)のご紹介

木版画家 髙木志朗

 髙木志朗は1934年、合併前の旧常盤村大字榊で篤農家の四男として生まれた。小学校時代、学校で相撲をとった時の怪我が原因で4年生の時、留年となった。中学校を卒業すると、画家を目指し、東京への夢も捨てきれず家出をしたが、その後、郷里に帰り高校を卒業したときは22歳になっていた。念願の武蔵野美術大学に入学するが、独学で版画に取り組むため学問の道を退いた。この頃から数多くの展覧会に出品し続け、1968年にはポーランド国際版画ビエンナーレ展で「日本の鬼」がグランプリを受賞し、国際的な版画家となった。1990年過ぎから、脊髄の病気で二度と彫刻刀を握ることができなくなり、惜しまれながらも1998年に逝去した。

 

作品「日本の鬼」

日本の鬼(髙木志朗作品)

 

 

木版画家 円平仁

円平仁(水谷毅)は1930年、合併前の旧常盤村旧富木舘村大字水木の水谷家の六男として生まれた。国民学校高等科を卒業後、青森市旧浪岡町の宮大工山平藤兵衛に弟子入りし、宮匠彫刻を本業とした。その後、奈良の天理教に乞われて、教会建造物の彫刻を手がけ、その技量が認められ多くの神社仏閣の仕事に携わった。1963年、脳内出血で右半身不随となり、闘病生活に入ったが、まもなく病気を克服し木版画の制作に取り組むようになった。1988年に逝去するまでに、数多くの展覧会で入選し、県内外で個展も開催している。津軽獅子舞シリーズ、躍動感溢れる野生の馬が代表的な作品である。

 

作品「山がらみの舞」

山がらみの舞(円平仁作品)

 

 

浅利文庫

農業の父 浅利崇

浅利崇は1908年、合併前の旧常盤村の旧家である浅利家の長男として生まれた。学生時代にロシア文学から社会主義思想に傾倒し、思想活動に参加したのは、当時の貧しい農民や苛酷な労働を強いられる弱者の姿をつぶさに見ながら成長してきたからにほかならない。その活動は、ますます活発化し農民運動に関わるようになった。1945年、勤務していた東京の農地開発営団を退職し、故郷に帰り1947年、旧常盤村長に就任したのをはじめ、青森県議会議員等の要職を歴任、1993年85歳で逝去した。その後、遺族から愛読書11000冊余寄贈され、「浅利文庫」を開設、町民が自由に閲覧し、貸出しも行っている。

 

登録日: 2010年9月29日 / 更新日: 2013年12月17日
このページの場所: http://www.town.fujisaki.lg.jp/index.cfm/10,254,46,180,html
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