唐糸御前史跡公園は、藤崎町の西側にあり、鎌倉時代の「北条時頼の回国伝説」にまつわる「唐糸御前の伝説」を今に伝える史跡公園です。
「唐糸御前の伝説」は、鎌倉の五代執権・北条時頼に愛された女性「唐糸御前 」の悲しい伝説です。唐糸御前は、鎌倉の執権・北条時頼に仕える、心根の優しい才色兼備の女性で、やがて時頼の愛を一身に集めるようになりましたが、周囲の女性の妬みを受けることとなり、鎌倉を逃れ生まれ故郷の津軽の藤崎に隠れ暮らしていました。時頼は、病で執権職を退いた後、仏門に入り諸国行脚の旅に出ました。そしてやがて津軽を訪れることになり、唐糸御前は一瞬胸をときめかせましたが、田舎に落ちぶれ見る影もなくやつれた自らの姿を悲しみ、近くの柳の池に身を投じて、はかない生涯を閉じました。村人たちが唐糸御前の死を泣き悲しんでいるおり、北条時頼がこの地を訪れて唐糸御前の死を深く悲しみ、唐糸御前が通っていた平等教院という寺院に墓を営みました。そして鎌倉に帰る道すがら七日ごとに寺を建立しました。今もその史跡を秋田県各地にたどることができます。(一七日山…大館市釈迦内の実相寺、二七日山…秋田市内の釈迦堂光明寺、三七日山…西木村堂村の大国主神社)

 唐糸御前のお寺の平等教院の場所は、唐糸御前史跡公園の西側にある巨大な松の古木がある場所で、現在町の斎場があります。平等教院は、幕府や地元豪族の安藤氏(安東氏)などの庇護を受け、護国寺・万蔵寺と名前を変えたようですが、近年の研究で、鎌倉文化が津軽に導入されていく過程でその中心的な役割を果たしたことが分かってきました。 万蔵寺は、江戸時代の初めに津軽を統一した大浦氏(津軽氏)の本拠地が弘前に確定され、宗教政策の一環として長勝寺構が構築された際に、弘前城下の西茂森に移されています。万蔵寺の洪鐘であったとされる「嘉元鐘」(重要文化財)は、現在津軽家の御霊屋がある長勝寺の洪鐘となっており、除夜の鐘で全国放送されたりしています。また、近世の藩主の津軽家の言い伝えでは、唐糸御前は、津軽氏の先祖とされる藤原頼秀(炭焼藤太)の母と位置付けられています。

 公園の一画にある史跡は、津軽藩の正史として編さんされた「津軽一統志」の中で、この伝説の古跡を津軽第一等の名勝として扱われています。
 史跡公園は、岩木山を眺望するリンゴ園の中にあり、総面積3960平方メートル余り、駐車場・トイレ・池・唐糸御前のブロンズ・花壇・藤棚・四阿等があるほか、南側の一画の史跡の部分には延文4年(1359年)の板碑、五輪塔、センの古木、各種の石碑などがあります。

※2010年夏に公開された、スタジオジブリの映画「借りぐらしのアリエッティ」のイメージの元となったとされる、平川市の国指定名勝「盛美園」清藤家の初代当主は、唐糸御前が鎌倉から下向する際、随行してきたのち平川市猿賀へ永住したと伝えられています。

 

護国寺(満蔵寺) 参考

 唐糸御前の古跡は、中世の頃から、悲しい女性の物語・唐糸御前の伝説を伝える場所として、人々の信仰の地となっていました。近くの藤崎町斎場がある場所には、唐糸御前の菩薩を弔った寺だといわれる満蔵寺がありました。満蔵寺は、鎌倉時代には護国寺と呼ばれ、関東御祈祷所にも指定された大きな寺院であったといわれています。
 開祖は、鎌倉五山筆頭の寺院である建長寺の開祖である大覚禅師であり、松島円福寺(現在の瑞巌寺)の第十七代住職・廉渓秀夫が円福寺の住職を勤める以前、護国寺の住職を勤めていたとされるなど、奥州における建長寺派の禅宗寺院として松島円福寺に匹敵する地位にあったと考えられます。

 関東御祈祷所は、幕府の援護により鎌倉時代後期から室町時代にかけて東北各地に建てられた将軍家の祈祷に当たる寺院で、いわば中央と地方を結ぶ宗教・文化・学術の交流センターでした。
 津軽護国寺はそのセンターとして幕府と直結し、中世津軽における宗教や文化の中心であったと考えられます。この護国寺は、江戸時代の初め大浦氏(津軽氏)の津軽統一に伴い、宗教政策の一環として長勝寺構が構築された際に、寺号を満蔵寺(現在は万蔵寺)に改め、弘前城下の西茂森に移されています。