町のあゆみ
旧藤崎町
旧藤崎町は津軽で最も早くに開けた土地であり、縄文晩期の土器などが発掘されていることから、先史時代から人が住んでいたものと考えられます。
前九年の役で(1051年)源頼義・義家を棟梁とする軍勢が、奥州の豪族・安倍氏を討ち、破れた安倍貞任の遺児・高星丸が藤崎に落ち延びて、のちの藤崎城を築き、安東氏を興したと伝えられていることから、藤崎は「津軽の歴史の発祥地」と言われています。
安東氏は鎌倉時代、岩木川水上の要衝、肥沃な土地を誇る藤崎を拠点に勢力を拡大、十三湖に進出し、強靭な水軍と船団を背景に日本海を雄飛し、北奥州の覇者として君臨しました。藤崎では、鎌倉との往来を偲ばせる「唐糸御前の伝説」や、南北朝時代のものと推定される6基の板碑が見つかっており、鎌倉の影響を受けて、文化的に高い水準に達していたと考えられます。
15世紀半ば、南部氏の進出により安東氏が津軽から退去した後は、南部氏の支配するところとなり、16世紀終わりの津軽(大浦)氏台頭以後は、藩政時代を通じてその支配するところとなりました。江戸時代は、藤崎組の首村として、代官所・鷹待場(幕府などに献上する鷹を捕獲する場所)・御蔵(米穀の集積と積み出しの基地)・伝馬(物資や文書の輸送基地)など、重要な公共施設が設けられていました。
明治22年「市制及び町村制」の施行とともに、藤越村・葛野村と合併した藤崎町と、中島村・小畑村・矢沢村・水沼村・中野目村・五林村・西中野目村・吉向村・亀岡村・俵舛村・下俵舛村・柏木堰村が合併した十二里村となりましたが、昭和30年に藤崎町と十二里村が対等合併し、翌31年に林崎が板柳町から分離合併したことで、旧藤崎町となりました。
旧常盤村
旧常盤村は鎌倉時代には北条氏の御内人として蝦夷沙汰代官職となり、室町時代には京都御扶持衆に組み入れられたとされる津軽の豪族である安東氏や、南朝の北畠氏ゆかりの武将の館跡に由来する地名が残されています。鎌倉時代には久井名舘は十川と浪岡川の間に囲まれた高台に舘が築かれていた(常盤村誌)とされ、福舘も中世の安東時代に築かれた砦から付けられたものといいます。水木は津軽郡中名字(天文年間1532-55)に「溝城(みぞき)」とあり、現在の古舘にある熊野宮は館神として勧請されたと伝えられています。平城の館跡で、郭内は南北250メートル、東西200メートルで周囲に水堀跡があり、現在でも堀、土塁が残っています。同じ津軽郡中名字には十川端の地名(現在の福島地区)もみえています。このように、早くから豊かな米作地帯として拓かれていました。藩政時代は津軽藩領、津軽郡田舎荘に属していました。
明治22年市町村制施行により、常盤村、富木舘村となり、大正13年には、奥羽本線(弘前から青森間)に村民の念願だった「北常盤駅」の開業が実現しました。また、常盤運送株式会社の創業により、米・りんごの農産物に加え、わら工品の輸送が活発化し、村民の日常生活に多大な成果をもたらすとともに、産業振興の発展に大きく寄与しました。
そして、昭和29年、県下合併第1号として常盤村、富木舘村が合併し、さらに昭和30年、隣村田舎館村の三ツ屋地区の-部を編入して旧常盤村となりました。
新藤崎町
新藤崎町は、旧藤崎町と旧常盤村が平成17年3月28日に対等合併して、県内最小面積の町として誕生しました。新町では恵まれた立地条件を活かし、それぞれの町村が取り組んできたまちづくりの成果を引き継ぎ、今後さらに発展・飛躍するため、新しいまちづくりを推進しています。
「みんなで創る 心豊かな 優しいまち」を合い言葉に、“子どもたちに未来を託せる 育てやすいまち”“都市を結ぶ交流拠点 出かけやすいまち”“水と緑の田園文化が薫る 暮らしやすいまち”を目指していきます。