平安時代末の11世紀の中頃、岩手県盛岡市のあたりに本拠地を構えていた東北地方の大豪族に「安倍氏」がいました。その安倍氏を京都政権の派遣軍が討ち滅ぼし、源氏が関東や奥州に勢力を張るきっかけとなった戦いが「前九年の役」(1052年~1062年の12年間にわたる長い戦い)です。その戦いで戦死した安倍氏の頭領・安倍貞任の遺児の高星丸(たかあきまる)が藤崎に落ち延び、成人の後に安東氏をおこし、藤崎城を築いて本拠地とし、大いに栄えたと伝えられています。

 藤崎城は1082年(永保2年)に築かれたとも1092年(寛治6年)に完成したとも伝えられています。鎌倉時代になると、安東氏は地方の豪族として幕府から「蝦夷管領」(流罪で蝦夷地などに流された人達の現場監督が主な役割)に任じられましたが、やがて蝦夷地の物産などの交易権を手中にし、莫大な利権を持つようになったといわれます。鎌倉時代には、鎌倉御家人がどんどん地方に派遣され住み着くようになりました。当時津軽は内3郡と外3郡の6郡からなり、そのうち内陸の肥沃な土地の多い内3郡が鎌倉の支配地(鎌倉役)とされて鎌倉の御家人たちが住み着き、安東氏は日本海岸を含む外3郡に本拠地を移したようです。

 その中にあっても、安東氏は藤崎城を領国経営の大切な拠点としていました。藤崎は、津軽の外3郡が内3郡に接する奥法郡の端にあり、岩木川水系が合流する重要な地点に位置していたのです。そして、津軽半島の十三湊を拠点にして、盛んな交易活動を展開したと伝えられます。十三湊はやがて日本の三津七湊の一つに数えられるくらい栄え、安東氏は十三湊周辺に、福島城・唐川城・柴崎城などを築きました。安東氏は、土着の豪族として室町時代の15世紀半ばまでの350年あまり津軽で勢力をふるいましたが、その間、安東一族の内紛、鎌倉幕府の衰退と滅亡の戦乱、建武の新政から南北朝の動乱、やがて南部氏の津軽支配にかかる戦乱などが続き、15世紀半ば頃に南部氏との戦乱で、各地の城や砦を次々と失い、やがて津軽を放棄しました。福井県小浜市に現存する名刹・羽賀寺(かがでら)の本堂は、ちょうどその頃、後村上天皇の勅命によって1436年に着工し1447年に完成した巨大な伽藍で、交易活動を盛んに展開した時代の安東氏の最後の輝きをしのばせてくれます。

 さて、津軽から退去した安東氏(安東宗家の下国安東氏)は、一時蝦夷地の福島城に入りますが、間もなく秋田県の北部の檜山城(能代市檜山)に入り、檜山安東氏となります。やがて一族で土崎湊で活動して湊安東氏を併合し、戦国大名・秋田氏となりました(秋田県各地には秋田・安東氏の遺構が数多く現存しています)。戦国大名秋田氏は、関ヶ原の合戦で西軍に加わり、1602年(慶長7年)に豊かな穀倉地帯が広がる秋田から常陸国の宍戸(茨城県友部郡)5万石に移封され、さらに40年あまり後の1645年(正保2年)に、三春(福島県三春町)5万石に移され、そのまま明治維新を迎えています。

 一方藤崎城は、15世紀の半ばから、津軽に進出した南部氏の津軽支配の拠点として使われ、南部氏の侍が詰めていた時代もあったといわれます。南部氏の津軽支配は、しばらくは藤崎城や浪岡城を拠点に、南部氏に従う津軽の小豪族ににらみをきかせながら、その支配に任せるといったゆるやかなものであったようですが、やがて南部氏の強力な一族である南部高信が石川城(大仏ケ鼻城)に入って勢力を拡大し、津軽の支配を強めたようです。そして1571年(元亀2年)、その頃急激に力をつけてきた大浦為信の軍勢が、石川城の南部高信を急襲して津軽統一に着手、間もなく藤崎城も大浦氏のものとなり、為信の義弟や甥が住むなど一時は大浦氏の重要な拠点となったようです。そして1585年(天正13年)頃、為信の義弟の六郎と甥の五郎が川遊びの途中で事故死する事件があり、その直後に藤崎城は廃止になったと推測されます。ただ、1592年(天正20年)に、太閤検地の東奥巡検使として津軽を訪れた前田利家らの大軍が大浦為信の本城である堀越城に入り、領主の為信自身は藤崎古城に逗留したらしいという記事が津軽一統志に見られますので、この頃には藤崎城は、廃止になっていながらもまだ領主がしばらく逗留できる城の機能は失われていなかったものと思われます。

 その後、藤崎城跡は建物が取り壊され、江戸時代を通じて、堀の跡は水田の苗代として使われ(堀苗代と呼ばれた)土塁や建物のあった場所などは畑となり、地形はそのまま残されました。

 藤崎城跡が決定的に変わったのは、戦後の昭和30年に入ってからで、道路が拡張されたり、家の壁や敷地の埋め立ての材料として土塁が急激に削られたり、とりわけ国道7号線バイパスの建設拡張にともなって、藤崎城の遺構から往時をしのぶことが難しくなっています。